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フェイクニュース

2019年6月7日

今日、テレビで「池上彰がアナタに警告 悪質フェイクニュース もう嘘にだまされるな」を見た。

フェイクニュースが日常的に飛びかって、危険と背中合わせな世界にいるのだと改めて思った。

フェイクニュースにより、実際に人の命が奪われたり、長い時間被害を受けている事例をいくつも放送していた。その中で番組の後半、1人の人物が自分の思い込みで、全く関係ない2人を誘拐事件の犯人と思いこみ、フェイスブックに投稿。その2人の姿の動画を中継。それを見た多くの人達が現場に集まり、集まった人達がさらにスマホで動画を拡散。さらに、「正義」と口にし、2人を押し倒し、油をかけて焼き殺してしまった・・・・

その暴力の場面や、焼き殺している場面も動画で拡散・・・

ショッキングな場面だった。

 

実際に私に、何かの凶悪犯罪の犯人がすぐそばにいる、今〇〇にいる・・・と知らせが来たら、、、、、冷静に本当のことかどうか考え、冷静に行動できるだろうか。

正直、自信がない。

私達は、不安な時には真実でない情報でも信じやすく、耳新しいことやショッキングなことは人に広めたい性質があるらしい。

私達の発した情報が、一瞬にして世界に駆け巡るようになったのは、長い人類の歴史から考えると、つい最近のほんの一瞬のことだ。つい数十年前までは、口コミで広まる程度だったのだが。それはまるで、とても面白いけれど危険なこともある玩具を子供に持たせ、危険を知らずに使っていたたようなものかもしれない。しかし、明らかに危険があると分かり、玩具の使い方も、危険のないように、使い方のルールを決めないといけない状態だと思う。

しかしそれだけでなく、私達1人、1人が情報の内容について考え、簡単に「いいね」を押して、むやみに広げてしまってはいけないのだ。自ら考えて、行動に責任を持っていかなくてはならない。自戒を持って考えて行きたい。

 

考えるということ

2019年6月4日

毎日何気なく考えている。単純に、何が食べたい、暑い、寒い、眠い、楽しい、つまらない、何を着る、、、、、から始まり、家族のこと、仕事の事、深刻な事、様々な事を私達は考えている。考えていると自覚もなく考えている。しかし私達は考えなければ行動も出来ない。

考えるときはことばで考える。ことばが無ければ考えることは出来ない。

そして、考えるとき、誰かと会話をしている。その誰かの1人は自分。日常の行動の大部分は自分自身との会話かもしれない。自分がどうしたいか、通常はそんなことを自覚してもいないことが多いが、無意識に自分自身に問いかけている。

そして自分以外の第三者。ちなみに、詩などは想像上の聞き手を心に置いて考えることも多いという。また、辞世の句などは、全て他者に向けてが前提と言われる。

私自身も考えをまとめている時、ある人に向けて聞いて貰っているように考えていることに気づくこともある。逆にハッとしてこの人に聞いて欲しいと考えているんだと思ったりもする。その時々の考えの内容により相手も変わる。特定の人との関係を考えているとき、その人に向けて話しているように考えをまとめている。

現実の会話の中で刺激され、それが元で考えが広がる事は多々あるが、そういう意味で大勢の人と関り、話をすることで、私達の考えの幅も広がるのではないかと思う。

 

分かっちゃいるけど止められない

2019年5月31日

飲み物に特別なこだわりはないが、1日に結構飲み物を飲んでいる。人によってはこだわりの珈琲、紅茶、緑茶、あるいは今は健康を考えてハーブ茶などを飲む人も多いのではないかと思う。水も、最近はこだわりの水があり、飲む水はこれと決めている人も多いようだ。

私はわりと多く飲むのはコーヒーかな。緑茶も飲むし、炭酸飲料も飲む。白湯も、時には紅茶も。一番多いのが珈琲。一時期はブラックコーヒーを好んだが、ペットボトル入りのコーヒーを飲むようになり、いろいろ試すうちに、黒砂糖入りのコーヒーが美味しいと感じる。もちろんブラックも飲むが。

自宅で入れる時も黒砂糖を買って入れてみている。黒砂糖も、買って試してみるといろいろな味があることも発見。小さな驚きだった。砂糖入りのコーヒーを、1日に何杯も飲むのは体に良くないと知ってはいるが、ほっとした時の黒砂糖入りの1杯は美味しい。なかなか止められそうもない。今日も仕事の合間、夜のほっとした時、黒砂糖入りのコーヒーを飲む。

暑いです!

2019年5月27日

まだ5月だというのに、この暑さ。体がついて行けないです。夜も何だか寝苦しくて目が覚めてしまいまいました。眠れずにふとつけたテレビで、バドミントンの国別対抗の世界大会の試合をやっていて、つい見てしまいました。惜しくも日本は負けてしまいましたが、でも準優勝。素晴らしかったですね。バドミントンも凄い運動量。凄いなと見入っているうちにいつの間にか眠ってしまいました。

コンサートに行ってきました

2019年5月20日

初夏のような日差しに、日ごと緑が濃くなっています。そんな中昨日、田中理恵さんのピアノコンサートに行ってきました。原宿にある緑に囲まれたとてもおしゃれで素敵なレストランで、ランチの時間には同席の人達と話をしたり、とても楽しいコンサートでした。

楽しかった余韻があり、NHKで放送していたアニメの「ピアノの森」が観たくなり、夜中に最後の2回分のビデオを観ました。

最終回、ショパンコンクールの大会委員長の心の語りにとても心を打たれます。

「今回のコンクールも素晴らしい参加者に恵まれ、大成功の大会となった。だがしかし、どれ程名のあるコンクールだとしても、スターを生むことが出来なければその名もいずれ落ちて行くだろう。だからこそ、我々が賞を与えた者たちには活躍して欲しいのだ。中にはその重責に耐えかねてここをピークに消えていく者もいる。だが一ノ瀬、お前は消えるな。我々がこれまでのセオリーを捨てて、音楽の神に誓ってお前を選んだのだから」と。

何と深いことばなんでしょう。

また、一ノ瀬海の先生、阿字野壮介が、事故でピアノを弾くことを出来なくなった左手を、25年経って手術をして、なかなか元通りに動かず、一から練習している時のことばも心を深く打たれます。

「私の場合は、かつて命より大切だった、あの輝く音を取り戻したくて、取り戻したくて、でも焦らなくてもいいのかもしれない。私の左手は息を吹き返したばかりなのだから。またあの場所から始めればいいのだから」

私達の誰でもが挫折して心が折れた時に、立ち直る大切な気持ちですが、いつでも感動します。そして、今回はそばにいてくれる海の存在が何より支えになっていることも心を打たれます。ピアノのメロディーと感動に心がきゅんとなった1日でした。

 

自分がどうしたいか?

2019年5月14日

人とのかかわりや、仕事をしていく中で、自分の対応を決めなくてはいけないことは多い。その場で即座に、あるいはじっくり考えて決断することも、あらゆるところで求められる。

自分で決めて行動し、納得できれば幸せだ。しかし、自分のことなのに、なかなか決められないことは苦しい。ましてや、自分で決めていいことも、自分で決めるという発想を持たない場合はなお苦しい。その辛さを体が教えてくれる。いつも周りの人はどうしているか、だけでなく、自分がどうしたいか?と考えてみることもいいのではないか。

表現するということ

2019年5月12日

精神科医の山上敏子医師の著書「行動療法」の中に、次のような記述があります。

『ある本に引用されていた話を思い出しました。引用されていたのは進行性筋萎縮症を患っていた夫の、妻の看病記の一部でしたが、夫のコミュニケーションの手段が病気の進行とともにだんだんせばめられていき、最後に残されたのが肛門括約筋の収縮によるコミュニケーションだったといいます。しかし、それもなくなってしまった時、妻は、存在するということは表現するということなんだという感想を持ったといいます。こんな極限の状況からでてくる認識はその立場になってみないとわからないものなのでしょうが真実の重みがあります。その人がその人としてあるのは、じっとしていることでも、目を閉じていることでも、息をのむことでも、そこに沢山ある実際でも想像でも、個体内でも個体外でも、刺激に反応するその活動であるということでしょう。われ思うゆえにわれありということかもしれないし、人間は行動してはじめてなにものかでありうるということなのかもしれないと思います。・・・』

存在することは表現すること。はっとすることですね。確かに私たちは、何も表現しなかったら生きることが出来ないのではと思います。

カウンセリングでお話をお聴きしていて感じることの多くが、適切な自己主張が出来なくて苦しんでいる、中には自己主張してはいけないと思っている、さらには、自己主張するという思いの無い場合もあります。

逆に自己主張してもそれを受け止めてもらえないとか、受け止めてくれる人がいないということがあります。また、自己主張しなくても分かってくれる筈なのに分かってくれないと思っていたり、あるいは自己主張し過ぎて相手を傷つけ、受け入れられなくて困っている場合もあります。

この複雑な世の中で、心地よく過ごしていくということは、適切な自己表現をして、それが受け止められるということが欠かせないことですが、どれが欠けてもとても辛い生き方になってしまいますが、それがどんなに難しいことか。適切な自己表現が出来ない理由は1つではないですし、受け止めてもらう相手側も様々事情がありますから・・・  少しでも解決でき、楽に生きられるといいのにと思います。

 

 

NHKの、「私は左手のピアニスト」を観て

2019年5月6日

連休中に、NHKスペシャル「私は左手のピアニスト~希望の響き世界初のコンクール~」を観た。

プロの部門とアマチュアの部門があり、それぞれ心を打たれるものだった。プロの演奏家は、元々は両手で演奏していたが、右手が動かなくなったり、指が1本引っかかったりして、両手の演奏が出来なくなったらしい。原因は、多くはジストニアという病気の人が多いようだが、アマチュアの演奏家の中には、脳梗塞など他の原因による方もいらした。

演奏を聴いて、左手だけで演奏しているという感じは受けず、両手で演奏しているものと変わりなく聴こえた。いや、それ以上に心に響くものを感じた。テクニック的には、ペダルの踏み方などそれなりにあるらしいが、きっとそれだけではないに違いない。

番組の最後に「絶望に立ち向かい、表現の限界に挑むことで切り開かれた、左手のピアノの世界。ピアニストたちは、1音、1音の重みを噛みしめながら、生きる喜びを奏でています」

生きる事の重み、絶望、それを超えた喜びなどを感じ、心に沁みこんできたのだろう。

 

 

 

気持ちのおもむくままに

2019年5月1日

平成から令和へと、新しい時代が始まりました。
おかげさまで、ハーモニーみたかは10年目になりました。
日頃の生活の中でのこと、皆様のお話をお聴きする中で感じた事、考えたこと、お知らせしたい事等々、
気持ちのおもむくままに綴ろうと思います。よろしくお願いします