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「再び話せなくなる前に」 を読んだ

2019年11月18日

「再び話せなくなるまえに」 秋津じゅん著 を読んだ。

 

著者は小児神経科医であり、2人のお子さんのお母さんであり、主婦でもある。

大変忙しい毎日を送りながら、いつも通り医師、お母さん、主婦の生活をしている中で3か月の間に、2度の脳梗塞を患い、そこからの回復の過程を描いた本である。発病から1年半での貴重な記録である。

 

内容は、単なる体験記ではなく、自らの病状と、回復と、回復のためにどんな努力をしたかなど、内容はほぼ論文である。

 

 

読んで、本当に驚くことばかりだった。簡単には語れない程いろんなことが分かり、目を開かれる思いだった。

 

いくつか挙げると、まず、脳梗塞を起こして、著者自身は頭の中で全部分かっていていろいろ考えておられる。しかし話そうとしても言葉にもならない、話せない状態だったこと。

病に倒れた最初の頃、著者は多幸感に包まれ、小さい子供のころのような感覚だったとのこと。

ものすごいスピードで回復していくが、新しいことに直面するとパニック状態になる。それをST(言語聴覚士)は「先生の病状は本当はもっと重い。出来なくなったことを、脳神経の違う経路でものすごいスピードで出来るようになっている状態」と言われたとのこと。

人との境界線が無くなったとのこと。

そして、本当に驚いたのは、そういった病状で、思春期の娘さんに対し、病気になる前と何も変わらずお母さんとしての役割を果たし、娘さんの悩みにつきあい、見事に娘さんの成長を見守ったこと。

そして医師として復帰された。・・・

などなど挙げれば枚挙にいとまがない。

そしてこれはこの時点の状況であり、まだまだ変化を続けているのであろう。

 

読みながら、私達の脳はこういうふうになっているんだ、と興奮しながら読ませていただいた。もちろん、脳梗塞は人により梗塞になった部位や程度が違えば、症状も皆違って来るが。

人間の本質とは何か、を考えさせられた。

 

 

この記録は、今後脳の研究に多大な貢献をするにつがいないと思った。この本により、今後の研究の質が大きく変わるのではと思った。

 

そして、著者の努力の凄さも圧倒された。とても私にはできないなと感じながら、心から驚きと尊敬の念を持って読ませていただいた。

 

 

 

 

 

反論と言い訳の違い

2019年11月11日

苫米地博士の「知の教室」、という本の中で、反論と言い訳の違いを次のように語られている。

ひとことで言ってしまうと、

 

反論は、ひとつの主張に対して違う考え方を出すこと。たとえば遅刻した時に、「電車が遅れたことは遅刻とは言いません」と言うような。(この先の説明に興味のある方は本をご覧ください)

 

これに対し言い訳は、自分の失敗に対する正当性を主張することで、対戦相手はいないのだとのこと。どれほど説得力のある理由を並べても、「いや、こういう理由があるからです」と言った瞬間に主張の負けを自分で認めているからだという。要は敗北宣言だと。

 

間違いやすいのは「言い訳」と「ファクトを正確に伝えるこをと」をごっちゃにしていることだという。

ファクトを正確に伝えることとは、ごめんなさいを最初に言い、相手先がこれこれこういう状況で仕事が進みませんでした、と事実を正確に伝えることとのこと。

 

 

これで思うのは、言い訳は、自己正当化や、自分を守ろうとして自分の負けを認められない状態を指していることなのだと改めて再認識した。

 

反論、言い訳、ファクトを正確に伝える、の違いを理解し、意識して行動することは、結果的に心理的に余裕ができるのではないかと思った。

 

 

 

 

 

バスの運転手さんに驚いた

2019年11月4日

先日夜、バスに乗ろうと、駅前ロータリーのバス乗り場で待っていた。

バス乗り場は、前の方からA,B,C,D・・・・ と並んでいる。

 

私は、Cのの停留所の所で待っていたが、何やら整備員の人達がいつもと違う動きをしている。あと数分で発車時刻。バスは目の前にいるのにまだ乗せてくれない。どうしたのかな、と思っていると思っていると、整備員の人がC停留所のバスの運転手に、何やら運転席の窓から話している。

すると急に、整備員がAの停留所の所に並んでいたお客さんを、こちらのバスに乗って下さいと、C停留所のバスまで誘導をし、1分くらいでAのお客さんは乗り込み、すぐにA方面に向けて発車した。その誘導も、並んでいた順番に、前の人から乗って下さいと整然と誘導し、何の混乱も起きなかった。

その直後、するすると後ろからバスが来てC停留所に停まり、Cの所で待っていたお客さんがすぐに乗車し、時間通りに出発した。

 

最初からA停留所の所に停まっていたバスはそのまま止まっている。車両故障で動けなかったらしい。

その間、ほんの数分だが、混乱することもなくそれぞれの目的地に向けて出発した。

バスの運転手さんたちはAのバスが動けなくなったことをその場で言われ、ぱっと切り替えて、他の目的地に向けて出発した。

 

 

バスに乗りながら、運転手さんはプロだなと思った。当たり前と言えば当たり前だが、バスの行路をすべて頭にいれ、突然コース変更を言われても顔色ひとつ変えず、何事もなったように平常心で運転する。整備員さんも、トラブルが起き、どうすればよいかパッと指示する・・・・・ 凄いな、と思った。

 

 

 

 

 

”家電”のお医者さん

2019年10月28日

NHKテレビの、プロフェッショナル 仕事の流儀・選

「家電の命、最後まで~電気店主・今井和美」 を見た。

電気店を営む今井和美さんは、壊れた電気製品の修理を依頼される。メーカーでも修理期限が切れて、他の電気店で修理を断られた家電が、日本全国からたくさん持ち込まれ、送って来られる。番組の中で、36年前のコンピューターや、40年以上前のカセットデッキが、また今回も生き返った。

今井さんは家電が1日でも長く生きるためと、依頼主も気が付いていないところも、予防修理をして仕上げる。足りない部品は自分で作る。今井さんは修理に必要な部品のために、壊れた古い家電が山のように置いてある。

 

今井さんは子どもの頃からの経験で、修理に生きがいを感じていた。

今井さんは社会人になり家電店で働き始めた。しかし、家電店では新しいものを売らないと儲けにはならない。店主に「直すな」と言われ、嘘をつき、新商品を売った。今井さんは、嘘をつくこが嫌になり、店を辞め、自分で店を開いた。しかしメーカーから見たら今井さんは販売成績が悪いため、修理用の部品も回してもらえない生活がつついた。しかし自分に嘘をつきたくないと、アルバイトで生活を支えながら新しい技術を身について行き、殆どの家電を修理できるようになった。

 

 

番組を見て思った。

恐らく今井さんのやり方は、経済の発展を追求する今の社会の在り方とは違う歩み方だろう。

しかし、直るものを修理しながら大事に使っていく、というのが日本人のやり方だった。もったいないという気持ちだろう。それが、私達は壊れたら新しいものを買うというやり方にだんだん慣れて行った。

 

この、使ええる物を大切に修理しながら使っていくというやり方は、経済の発達の観点から見ると逆行だろう。しかし、この大量生産、大量消費、という社会のやり方は、地球の温暖化につながっているのだろう。

私達は経済発展を目指す生活にあまりに恩恵を受けてどっぷり浸かってしまった。その結果が、最近の台風や大雨による日本の災害被害に思える。

 

 

今から私達は、何が出来るだろう。経済発展に行き詰まり、便利な生活は出来ないという現実と向き合えるだろうか。

 

 

 

 

 

 

豊かさと他罰性、そして人間関係の希薄化

2019年10月20日

昨年お亡くなりになられた児童精神科医の、佐々木正美先生の本が、今年、装いを新たにして出版された。

佐々木先生は数多くの本を執筆されているが、今回出版されたのは「子どもの心はどう育つのか」というタイトルの新書。

どの本も子どもへの慈愛に満ち溢れている。

 

 

佐々木先生はこの本の冒頭の所で、臨床心理学者、文化人類学者の我妻洋先生(1985年没)の話を引用しておられる。

 

「文化人類学の方面から人間ということを考えますと、地球上ほとんど至るところにいろんな種族、民族、いろんな人間が住んでいるわけですが、経済的、物理的に豊かな地域や文化圏に住んでいる人間ほど、外罰性とか他罰性という感情を強く持っていると言われます。外罰、他罰というのは、何か不愉快なことがありますと、自分以外の人を罰したくなる、そういう感情、感覚、感性のようなものです。人のせいにしたくなるとでも言いましょうか。

卑近な例ですと、仮に幼い子どもの手を引いて自分の家の周囲を歩いていて、ちょっと親が心の隙を作った時に、子どもが親の手を振り払って、ちょろちょろ歩いて行って、ころんで、運悪く道の端のどぶ川へ落っこちたとします。この場合、『ああ、しまった、いけない』と思うだけで済ませれば、それは自己罰であり、内罰ですが、同時にこのどぶ川の管理責任者は誰だろうという感情が湧き上がったとします。こういう人通りの多いところのどぶ川をオープンにしておくのは許しがたい、この道路とどぶの管理責任者は誰だろうという感情に自分が支配されたとすると、この部分が外罰であり、他罰になります。経済的に、あるいは物質的に恵まれない社会に住んでいる人の場合は、おそらくこんな時に、こんな外罰的な感情は湧き上がらないでしょう。豊かさと外罰性、他罰性、貧しさと内罰、自己罰という感情は結びつきやすい。これは、人類としての特性だそうです。

次いで、過密社会にいる人ほど人間関係が希薄になりやすいというのです。反対に過疎地の人ほど人間関係が濃密です。近隣や友人や親戚、その他の人々との人間関係が濃厚である。過密社会の人ほど人間関係は希薄になりやすい。これも、人間としての特徴だそうです。

この二つ、豊かさと過密さというのは、同時並行しやすい人間社会の現象です。・・・・・

豊かさと過密さというのは、このように関連しやすいものだそうですが、東京などはその最も典型的な場所でしょう。その両方が合わさりますと、私達は自分の周囲にいる人に対して、その人の持っている長所よりは短所の方にセンシティブになるのです。弱点や欠点、短所の方が気になってしかたなくなる。こういうことが人間関係をさらに希薄にしていくことになるのだろうと思います。

貧しさと過疎化というのは、特に過疎と言うのは相手の人の長所のほうに感性を働かせやすくするということです。こういう人間の、あるいは人類の持っている感性あるいは特性のようなものは、他人との関係だけでなくて、夫婦の関係でも、親子の関係でも、同じように認められるのです。・・・」

 

 

これを読んで、理論的には分からないが、感覚的にはそうかもしれないと感じた。

人間関係が希薄になっていて、深く付き合うのは避ける傾向があるように感じる。また社会がどんどん他罰的になり、自省的でなくなっているのも実感として感じることも多い。

 

ドナルド・キーン氏は、日本文学を愛し、日本に帰化し、3.11の東日本大震災の後、日本に越して来られ日本を終の棲家とされ、お亡くなりになられた。そのドナルド・キーン氏も同じようなことを言っておられた。

氏は、太平洋戦争の時、アメリカ軍の通訳として働き、日本兵の日記などを読んだことがきっかけで、日本人の考え方や身の処し方に深く感銘し、日本文学の研究をするようになられたのだとのこと。そのドナルド・キーン氏が後年になり、日本人は最近、人を責めたり、自分だけ良ければというふうになり、昔の、己を深く見つめ、人との和を大切にする日本人の良さが無くなって来たという話を、亡くなられた時の、テレビの追悼番組でお聞きした。

 

人にとって幸せとは何だろう。

私達は幸せになりたいと豊かさを目指してきたのだと思うし、大方の人は豊かな人間関係を持ちたいと思っていると思う。しかし今の世の中がとても住みにくいと感じている人も多いように思う。それが豊かさと過密性にも原因があるのだろうか。

私達は果たして何を目指していけばいいのだろう。

 

 

 

 

 

新米 お母さんネコ 2

2019年10月13日

赤ちゃんネコは3日の命だった。

動物病院の先生に、初乳を飲んでいないから、難しいかもしれない、と言われていたので、そうなるかもしれない、とは思っていた。

でも、3日間は頑張って、2日目の夜はうんちもちゃんとしたとのこと。上から下までちゃんとつながって動いているということらしい。

先生がおっしゃるには、長い間獣医をやっていて、へその緒も、胎盤も付いたままで連れてこられたのは初めてのことだったとのこと。それだけ生き延びるのは厳しい条件だったのだろう。

 

3日間、よく頑張った。

 

 

 

先生がおっしゃるには、最近野良猫が減っていて、連れて来られる赤ちゃんネコが少なくなったとのこと。

私達は気が付いていないが、野良猫が減って、街中に狸やハクビシンが増えているとのこと。夜遅くや、朝早く、普通に道路を歩いている姿をよく見かけるし、一般家庭の庭にもいるとのことだった。

心配は、狸やハクビシンが増えることにより、これまであまりなかった病気が増えていく可能性があるということ。

以前、都の政策でカラスを少なくするということがあったが、その結果、ムクドリやインコが増えたともおっしゃっていた。

 

 

自然界に、人間の都合で思いついたことをすると、考えていた時には見えなかった、思いもかけない結果を招くこともよくある事のように思う。

そもそ人間たちが自分に都合く環境を整えて来て、ちょっと都合が悪いと思った時の手立てが、自然界のバランスを崩してしまうことがあるのかもしれない。

 

元々動物たちの住処に、人間が開拓して動物たちをどんどん狭い範囲に追い込んで行った面があるだろう。

ともすると人間の都合のいいように、動物たち(植物も)支配しようとし、人間が支配しきれなくなった時、動物たち(植物)が元の位置に戻って来るのかもしれない。もちろん動物たちにも都合のいいことはあっただろうが。

 

本来は、人間も動物も共生できるようなあり方が、地球規模からみると、自然かもしれない。

自然との共生。口で言うことは優しいが、実際に行動に移していくことは難しい。私達が我慢をしなければいけないこともあるだろう。永遠に考え続けなければいけない事だろう。

自然界の中の人間の位置について、再度考えさせられた、今回のネコちゃんだった。

 

 

 

 

 

新米お母さんネコ

2019年10月6日

朝、外で大きな鳴き声が聞こえ、えっ?小鳥?何だろう?と思い外に出てみると、物陰に、小さな小さな子ネコが一匹、大きな声で鳴きながら体を動かしていた。

たった1匹赤ちゃんは残され、お母さんネコはいない。赤ちゃんネコにはまだへその緒と、胎盤が付いている。

どうしていいのか分からず、おろおろ、うろうろしてしまい、困って獣医さんに電話をした。

獣医の先生に連れて来てくださいと言われ、取り敢えずへその緒が付いたままそっと段ボールの箱に入れ、獣医さんへ。

 

先生は早速へその緒と胎盤を切り、体を温め、スポイトでミルクを飲ませてくれた。ほんの2ccほどだがすんなり飲んだ。

 

 

先生のお話だと、多分、若いお母さんネコの、初めての出産だろうということで、生まれてすぐ、お母さんネコは赤ちゃんの顔や体をなめてあげたに違いない。そうでないと、すぐになめてやらないと顔も粘液に覆われ、呼吸が出来ず死んでしまう、普通はその後へその緒や胎盤を食べ、時間をかけて何匹かを同時に生むというお話だった。

しかしお母さんネコはその経験が無いので、そこでパニックになってしまい、どこかに行ってしまったんだろうとの事だった。

 

こんなに小さな赤ちゃんは本当に手がかかり、最初は2時間おきにミルクを飲ませ、目が離せないとのこと。離乳まで2か月ほど。

しかし、先生がおっしゃるには、初乳を飲んでいないから生き延びるかどうか分からないとの事だった。

あまりの小ささに衝撃を受けるくらいだったが、今は何とか生きている。

今夜は元気だと先生からお聞きし、ちょっとほっとしている。

 

 

 

 

 

NHK 朝ドラ なつぞら

2019年9月30日

NHKの朝ドラの、「なつぞら」が先週で終わった。

朝ドラは1人の主人公の成長の物語である。成長の過程で様々な困難にぶつかり、いろいろな人との関わりの中で、困難を乗り越え成長していく様子が描かれる。

 

なつぞらは、主人公のなつも人気があったが、なつの祖父、泰樹も大変人気が集まったようだ。

祖父のことばに、こころがじーんとなり、力づけられ、勇気をもらったことも数々ある。そして生きる事の厳しさと、それを受け止めて覚悟していくことなども教えられた気がした。今のテレビの中で少ない、大人だと感じさせてくれる人だった。

 

 

最終回、祖父がなつに語ることば。

「なつ、わしが死んでも悲しむ必要はない」

「わしの魂もこの大地に沁み込ませておく」

「さみしくなったらいつでも帰って来い。おまえは大地を踏みしめて歩いて行けばそれでいい」

「それに、わしはもう、おまえの中に残っておる。おまえの中に・・・」

「それで十分じゃ」

「しかしよくやったな、なつ。おまえは東京をよく耕した」

「いつでも東京に帰れ。わしはいつでもおまえと共におる」

 

 

 

これ以上のことばがあるだろうか。

 

こういう気持ち、こういう思いをさせてもらった人は幸せだ。1人から持たせてもらえればいい。

 

そういう思いを持てない人が、悩みを持つのだろう。

一見、目の前の出来ごとや人間関係に悩んでいるようでも、元をたどっていくと、そこにぶつかることが多い。

そこが満たされると、世の中ももう少し平和になるかもしれない。

 

 

 

 

 

ダイアモンド博士の ヒトの知恵

2019年9月16日

NHKEテレで、ダイヤモンド博士 ヒトの知恵 という番組をやっている。カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授のジャレット・ダイアモンド博士の特別授業だ。

現代社会のことでなく、伝統社会がなぜ魅力的か、なぜそこに人間の歩みの原点があるのか、彼らから何を学べるのかがテーマだ。番組は内容がぎゅっと詰まっていて1回の番組で多くの内容がある。

 

9月12日の番組は少子高齢化の問題がテーマだ。

若者の引きこもりや自殺の増加は世界的な傾向で、少子化は現在の子育てにどんな影響を与えたのか。高齢化は年寄りの尊厳が脅かされ、生きがいを失うことが多くなっている。伝統社会はこうした問題にどのようなヒントを与えてくれるかを取り上げていた。

 

 

その中で、発見がいくつもあった。

例えば、伝統社会の子育ては、通常母親が赤ちゃんを常に抱っこしていて赤ちゃんはお母さんと9割は、肌が触れ合っている。寝る時も添い寝で、小さい赤ちゃんの授乳は泣いたら授乳。いつでも貰える。夜でも赤ちゃんは母親の上に寝ているのでお腹が空いたら飲める。

現在は母親が仕事をしているため母親の都合で授乳することが多いだろう。

伝統社会の子育ては日本の昔の子育てにも通じるところがあるが、現在はあまり推奨されていないかもしれない。

 

赤ちゃんが泣いたら授乳を続けると、避妊に繋がるという。1時間に何度も授乳を続けると、母親の体から排卵を抑制するホルモンが分泌され、妊娠しにくくなる。赤ちゃんが大きくなり、授乳の頻度が減ると、母親は再び妊娠しやすくなる。アフリカのクン族も次の子どもを身籠るまでに通常3~4年間が空くという。また、母乳を長期間飲んだ子は、より健康で生存率が高くなるという研究結果も出ているという。

そして、赤ちゃんが泣いたらすぐ抱きあげてあやす、それが赤ちゃんの安心につながっているという。また伝統社会の赤ちゃんは親だけでなく、他の大人にも面倒を見てもらっている。allo-parentingと呼ばれ、親以外の大人が親の役目を果たす代理養育である。文化民俗学者の観察では、ピグミー族では1時間に、親以外の大人に8回も順番に抱っこされるという。

書くと長くなるので省くが、allo-parentingを受けた子どもの方が成長が早くなるという。

 

また一部の遊牧民族を除く多く狩猟採集民の伝統社会では体罰は与えられないという。1度でも赤ちゃんを叩くとそれだけで離婚につながるという。

子供を子ども扱いせず、赤ちゃんにも自由与えられているという。ナイフで遊びたければ歩ける前の子どもでもナイフが与えられたり、子どもたちは幼いころから自分のことは自分でやり、ナイフや火の扱いも覚え、10歳になる頃には半分大人といえる。玩具でなく実用品が与えられ、そのうち子供達は必要なものは自分で作るようになっていく。

 

 

博士はニューギニアの子ども達が、博士やアメリカの今の子ども達に比べてとても自信に満ち溢れていることに驚かれるという。

また、ニューギニアでは、大人と堂々と交渉できる5~10歳の子どもによく出会ったという。実際博士は1964年に、博士の調査を手伝ってもらうのに、10歳の子どもが自ら名乗り出て、いくら払って来るれるかを交渉し、有利な条件を引き出して決め、一緒に旅に出てくれたという。

つまり伝統社会の子ども達は、自主性を尊重され、早い段階で自信を付けることになるのだという。

 

 

 

伝統社会は理想的な社会ではない。深刻な問題もある。しかし、ヒントもある。

 

現在は、親が(学校でも)子供にいちいち指図し、言う事をきかせ、子どもの自主性はあまり尊重されていないと感じる。もちろん中には子どもの自主性を重んじて育てている親もいることだろう。

しかし、自分のことが決められず、決めることにストレスや恐怖を感じ、社会生活が辛くなってしまって、自分の自信がなく人の目が気になって仕方がない人が多いと、日々感じる。

 

 

私達が一人ひとりが皆堂々と自信にあふれ、幸せに感じながら生きて行くためのヒントの1つとして、大人は、もう少し子どもを信じ、子どもの自主性を大切にする必要があるかもしれない。あまりにも現在は子どもを大人に従わせ、子ども扱いし過ぎているかもしれない。本当に大切にするという意味を考える必要があるかもしれない。子どもが1人で生きて行けるようになるための自信を削がないように。

自主性を見守るのは、慣れないととても苦痛を伴うが、それが普通になってしまうと、楽になると思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

葛飾北斎 「神奈川沖浪裏」

2019年9月13日

9月12日の新聞で、生物学者の福岡伸一さんが、葛飾北斎について、こんな紹介をしている。

「神奈川沖浪裏」を含む北斎の代表作、富嶽三十六景は、北斎が70歳を過ぎての刊行だという。

 

北斎は、「己六才より物の形状を写の癖ありて半百の比より数々図画を顕すといへども七十年前画く所は実に取に足ものなし」・・・・・

(幼いころから絵を描くのが好きだったが、50歳(半百)はおろか、70歳になる前の作品に大したものはない)と記しているという。

また北斎は研鑽を積みつつ決して自分の技量に満足することなく、いつも灼けるような焦燥感を抱いていたといい、そして壮年期を過ぎてから自らの最盛期を創出したという。

更に、最晩年にはこんな風に言って息を引き取ったという。

「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるべし」と。

 

 

あの葛飾北斎が、そうなのか、と思う。

一般的には、70歳と言えば定年も過ぎ、難しいことは考えず、悠々と自適の生活を送れるというイメージが無いだろうか。

私は悠々自適とまでは行かなくても、少し第一線を降りて楽しいことをして、難しいことは考える機会も減るのかな、と考えていた。

 

 

 

しかし、脳科学者の黒川伊保子さんは、著書「成熟脳」の中で、

脳は、五十代に本質を知ると記している。しかし、六十代に比べればまだ青く、六十代に入ると、本質の回路の抽象度が上がり、直感の域に入って来る。存在の心理が腹に落ちる。ことばにならない納得が、降りてくるのだそうだ。・・・この世の生きとし生けるもの存在意義、あらゆる事象の意味を知ることができると。

そして、能や書や古美術など、ことばにならない深遠の芸術は、いつの時代も六十代、七十代が支えているとある。

また、孔子は、「六十にして耳従う」と語ったそうだ。60歳にして人の言うことに素直に耳を傾けられるようになったとある。

 

 

 

どうも私達人間は、年を取るほど人間として成長していくものらしい。

いくつになってももう遅いとなどと考えず、やりたい事があったらやるのが良いのではないか。せっかく与えられた能力を十分発揮できないとしたらもったいない。

誰でも1度きりの人生なのだから。